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  井出洋介 オフィシャルメールマガジン

     『 人生”負けない!”は”勝ち!” 』 Vol.001

                            2012.06.06
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INDEX -------------
1... My Histry
2... トリビア
3... 麻将的考え方
4... 記憶に残る対局、対戦者たち
5... Q&Aコーナー
6... 最新情報、スケジュール
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@My Histry 
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それは今から33年前、1979年4月のことでした。
前月に東京大学文学部社会学科を卒業、そのままどこにも就職することなく麻雀プロを志
す道を選んだ私に、色々なマスコミが注目してくれたのです。
たとえば「JUNON」だったり、夕刊フジだったり、週刊朝日だったり、日本テレビの
朝のワイドショーで沢田亜矢子さんが司会の「ルックルック・こんにちは」だったり。
まだ世間知らずの23歳の若者は、つい勘違いをしそうになります。

「やっぱり、これで良かったんだ。」どうせそのまま麻雀プロの道に進むのだから、卒業論
文も麻雀のことを書こうと、半ば強引に400字詰原稿用紙100枚を埋めた「麻雀の社
会学」は、実際には研究室から呼び出され補論を書くことによってやっと可(優良可の可で
す)をもらった位の出来だったのですが、これすら話題にしていただけました。
そもそも大学在学中に競技麻雀に出会い競技会に参加するようになり、当時の麻雀専門誌
に名前が出るようになった程度でも、自分の中では若手プロの末席に加えられたような気
がしてしまったのです。

その時期、世間では「11PM」で大橋巨泉さんが麻雀コーナーをやったり、週刊大衆で
麻雀名人戦が連載されていたり、専門誌が数種類出るほど、麻雀ブームの真っ最中でした。

それまでやっていた学習塾講師を続ければとりあえず生計には困りません。当時の平均初
任給よりも稼げたので、生活の心配は有りませんでした。その傍ら競技活動、プロ活動を
やっていくつもりでした。
ところが、ここから私の誤算というか、見通しの甘さが次々に露呈してきます。まず、勤
めていた学習塾を辞めざるを得なくなりました。生徒の親が私の麻雀活動のことを知って
塾にクレームをつけたことが発端でした。
麻雀=ギャンブル、麻雀プロ=ばくち打ち、世の中のイメージがそうであることを、この
ときから徹底的に思い知らされることになるのです。

これにより安定した収入を断たれた私は、それまで週に1~2日顔を出していた雀荘での
アルバイトを増やすしかありませんでした。
渋谷・並木橋の雀荘「東々」は、暗い階段を上って2階にあるいかにも胡散臭い雰囲気の
汚い店でした。4人がセットで来るスタイルではなく、1人で来る客を集めて卓を立てて
いくバラ打ち方式。(いわゆるフリー雀荘)勿論、当時は手積みの卓です。

私たちは“メンバー”と呼ばれ、お茶汲みやゲーム代をいただくだけでなく、客が4人揃
うまで卓に入って打つのが仕事。つまり、賭け麻雀のお相手をするのです。
お店からの給料はありますが、もし麻雀でそれ以上負ければ収入がなくなってしまう可能
性もありました。トータルすれば負けないで給料分が残るだろうとは思っていましたが、
それでも1日単位では大負けすることもある不安定な仕事で、詳細は親にも言えませんで
した。
仕事を始めた頃は、朝の通勤・通学ラッシュの時間、井の頭線渋谷駅で降りる大勢の客と
は反対方向に乗って帰宅する徹夜明けの私、そのアウトサイダー感がちょっぴり気持ち良
かったりしたものです。しかしそんな生活がしばらく経つと「一体、自分は何を目指して
いたんだろう、これで良いのか?」という気持ちのほうが大きくなってきました。これで
は、本当に、ばくち打ちと同じではないか。

そんな、悶々とした日々を送っていたとき、人気週刊誌だった「平凡パンチ」から対談の
企画をいただき喜んで出たのですが、相手は東大を中退してパチプロになった方で、表紙
に載ったタイトルも“東大出身はみだしギャンブラー対談”・・・。というわけで、世間の
見方はやはり、ばくち打ちなのです。

その年の秋、麻雀専門誌・月刊近代麻雀(劇画ではなく活字雑誌)の編集長から「編集部の手
が不足しているんだ。ウチで働かないか」という申し出がありました。今思い返すと、も
しそこでイエスと答えていたら、またそこで違う人生があったかもしれません。(その場合
は、おそらくもう麻雀プロの世界からは離れていたことでしょう。その理由は、追い追い
わかると思います。)
しかし、そのときは迷うことなくお断りしました。打ち手としての志が強かったので、編
集者という裏方部門に当時は興味がなかったのでした。

そして、その直後にチャンスがやってきました。第7期かきぬま王位戦というタイトル戦
で勝ち上がって優勝決定戦に進出したのです。
(注・当時は麻雀用具メーカーのかきぬまがスポンサーで、月刊近代麻雀のタイトル戦。現
在は日本プロ麻雀連盟が主催している。)
「勝てばタイトルホルダーになれる!」プロとしての勲章が目の前に現れました。
決勝は翌年の2月。
その直後には、最高位戦Bリーグ予選という大事な対局も控えていました。当時は最高位
戦のリーグ選手になることも、プロという肩書きをもらえる近道だったのです。
(注・月刊近代麻雀が麻雀プロの年間リーグ戦として創設した。トップ選手が所属するAリ
ーグの下にBリーグがあり、そのBリーグに入るための選抜戦がBリーグ予選。現在は最
高位戦日本プロ麻雀協会が主催するタイトル戦。)

気分は高揚し、対局が近づくと映画「ロッキー」と「ロッキー2」の2本立てを見に行く
など、イメージ・トレーニングもどきのことまでして、私にとっての大勝負に備えたので
した。それこそ、気分はタイトルホルダーです。
でも当たり前のことですが、優勝しなければタイトルはもらえません。

王位決定戦は2日制で、初日に5人で5回戦(1人1回抜け番があるので実質4回戦)打ちま
す。1、2回戦と連続トップという最高のスタートだったのですが、3回戦に大きなラス
で貯金を使い果たしてしまいます。結局、初日は5位まで落ちて、2日目の最終戦が抜け
番という苦しい立場に追い込まれてしまいました。
それでも2日目は居直って初日のマイナスを挽回。トータル3位で初めてのタイトル戦決
勝を終えたのですが、オリンピックなら銅メダルでも、麻雀では優勝者以外はまったく評
価されないのでした。

そして最高位戦Bリーグ予選、大学在学中から出場しており、これが3度目の挑戦でした。
かなり自信もついていたのですが・・・またもや敗退。
これで初タイトルの夢もリーグ選手の地位も消え、大学卒業後の最初の1年が終了。気分
的には何も残らず、ただの雀荘のメンバー、実質プータローになってしまったようでした。
専門誌では一応、若手プロ扱いをしてくれましたが、自分の中では再び「これでいいのだ
ろうか」と思い悩みながらの“社会人2年目”が始まりました。

*次回は、遡って私の少年時代を振り返らせていただきます。



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@トリビア
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ここは麻雀雑学コーナー。知っている人には当たり前と思うことでも、結構知らない人も
いるんじゃないかな、って思うことを取り上げていきます。
一回目は、半荘(ハンチャン)について・・

麻雀で普通に行われるゲームの単位は、半荘戦です。最近では東場だけの東風戦(一風戦)
も増えてきましたが、まだ多くは東場と南場の2周をする半荘戦です。
そもそも麻雀は東場、南場、西場、北場の4周で1荘戦だったのですが、それでは時間が
かかるため短縮して半分になったのが半荘戦、これが戦後の大衆レジャーとしての麻雀だ
ったのです。かつて(手積みの時代)は約1時間で1ゲームが見込める半荘戦がちょうど良い
と思われたのでしょう。
東場と南場だけでは西と北がかわいそうということなのか、グループによっては最初の一
周を表と呼び東西場、2周目を裏と呼んで南北場にしているところもありました。
最近ではなくなりつつある西入、北入なんてルールも、たまには西や北も場風にしてあげ
ようということだったのでしょうか。
また、北海道や東北地方では半荘でも東南戦ではなく東北戦が普通で、起家マークも東の
裏が北になっていましたね。今でもまだあるのかな。



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@麻将的考え方
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まず“麻将”を説明しなければなりませんね。
実は、中国の共通語である北京語では麻雀のことを麻将と書きます。どうやら麻雀という
表記は、発祥の地と言われる寧波など上海に近い南のほうで使われていたようです。
1995年から中国と麻雀交流を始めた日本健康麻雀協会(当時の代表が私)は、1998年
に中国国家体育総局が競技用ルールとして統一麻将規則を制定したのを機に、頭脳スポー
ツとしての麻雀(賭けない麻雀)を“麻将”と表記することにしたのです。
現在では、日本健康麻将協会、麻将連合、NPO健康麻将連合会が“麻将”を使用してい
ます。
私が麻将を提唱したとき、麻雀の文字を変えるなんてとんでもない、との批判を受けたこ
ともあるのですが、私は麻雀の文字を変えたとは思っていません。
麻雀は普通名詞でゲームの総称です。そしてどうしてもギャンブルイメージが拭えないこ
とばですから、私は麻雀の中の一部を麻将として表現したいのです。
麻雀ということばに固執せず、新たな、進化した形態の頭脳スポーツ麻将をアピールしよ
うということなのです。
私にとっては、進化、改革のシンボルでもある麻将。この発想を、麻雀に限らずそれ以外
の分野でも使っていきたいと思います。



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@記憶に残る対局、対戦者たち
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飯田正人(その1)
先月5月18日未明、まだ63歳になったばかりで亡くなった(癌でした)飯田正人さん。
突然の死を悼み、しばらく飯田さんとの思い出を語らせてください。

最高位を通算10期獲得した永世最高位、その他のタイトルも多数獲得している超トッ
プ・プロだった飯田さんと私がとても親しかったことは、案外知られていません。
そもそも私が初めて最高位戦Bリーグ入り(第6期)したときの同期生。
その年は、私がB1リーグ、彼はB2リーグだったので対局することはなかったのですが、
私はB1リーグ残留で飯田さんがB2リーグを昇級したので、翌年から同じリーグで戦う
ことになりました。
第7期B1リーグ戦で、ずっと首位を走っていた飯田さんと終盤に追い上げた私、最終日
に逆転優勝して新人王となったのは私でしたが、2人昇級なので飯田さんも一緒に翌年か
らAリーグ入り。
Aリーグ1年目の第8期は、2人とも不振で最終日には降級争い。どちらもあわや降級と
いうピンチをクリアしての残留でした。
当時は、池袋の雀荘「リツ」の経営者でパンチパーマの強面だった飯田さんとは、まだ対
局以外にほとんど接点はありませんでした。



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@Q&Aコーナー
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事前にご了承ください。



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@最新情報、スケジュールなど
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今月は新刊書が出ます。池田書店から「東大式麻雀・捨て牌読み」
対局は、24日(日)にμM1カップ本戦(銀座柳本店)、25日(月)にはμリーグ(新宿マーチ
ャオ)があります。



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運営元:ブレイン株式会社 http://www.blayn.co.jp
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